我家のRootsは岐阜県揖斐郡揖斐川町の出身である。1600年、関ヶ原の合戦で戦いに敗れた石田三成が逃げ込んだ『伊吹山地』の麓にある。大垣市から養老鉄道で15キロ北に登る。
杉林が生い茂る山間の麓に日吉神社がある。大正7年に我家の開拓の父(初代)が寄贈した石の鳥居ある。北海道の開拓に目処がつき揖斐川出身(上野地区)の竹中農場の先代など、開拓者が狛犬などを寄贈している。
*本社は近江国比叡坂本鎮座の日吉大社の御分神である。建久元年(1190)源頼朝右近衛大将となり京都青蓮院三世慈円に青蓮院領として美濃国小島庄を寄進された。その由緒により庄園鎮護の為「日吉山王社」をこの地に勧請祭祀された。今より約八百年前の創建である。御祭神は大山咋神をお祀りしている。(岐阜県神社庁より転記)
明治末期に村瀬家先代は帯広に開拓入地して、芽室から鹿追に土地を求めて大正5年ごろに定住した。ここ北鹿追地区は天理教団体が東北、九州から開拓に入っており、母親の先代(天理教団体)の祖父が札幌農学校出身でアメリカ式農法を取り入れていた。
当時は厳しい自然環境で冷害では農産物が収穫できず、豊作では(農産物価格の暴落)で収入が得られず、肥料や資材の高騰が追い打ちをかけ、夢破れて本州に帰る農家が続出していたそうである。回想録などでは、現在のように『農協』が存在せず団体で価格交渉が不可能で、大豆、小豆等は商人たちに買い叩かれていた。そんな窮状から正月に向けて帯広市へ少しでも高く現金収入を得るため大豆、小豆、蕎麦を馬橇に積んで売りに行った。しかし安くしか売れず、宿泊費、交通費などで、財布から現金が消えたり、赤字になったそうである。
十勝鹿追の大地には涙と汗と開拓者の苦労が染み込んでいることを再認識してほしい。農協不要論は全くナンセンスである。販売等をしてくれる『農協』が存在することで、我々生産者は農産物の生産に専念できる。
我ファームの土地に稲作もしていたようだが無理だったようで、食べるのにも困窮していたのでしょう。離農した畑を譲り受けて一時は200ha以上を大正から昭和初期の時代に耕作していたが、無理が祟り倒産したそうだ。そんななかで現在地だけは死守して営農していた。父親が子供の頃タンスなど家具に差し押さえの赤紙が張られていたことを覚えているそうだ。今から100年くらい前のことである。
農家をやめることは簡単だが、続けて営農できることは楽しいことであり大変なことでもある。先代が苦労して開拓した土地を4代目の自分まで100年間守り、これからも守る責務を痛感する。今年の営農計画を策定した時、先代が斧や鋸を持って柏の大木を切っている姿を想像して、私らも『頑張らなければ!』と感じている。
②関連投稿2011、12月16日。(写真は以前に訪れた揖斐川町上野の日吉神社にて)