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団塊世代ブログ 本から人生の栄養を! - 記事一覧
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発行日時
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2023.01.31
「繰り返される戦争 人は歴史に学べないのか」 藤原辰史 記事
◎1/26、北海道新聞・各自核論より。 専門は農業思想史・ドイツ現代史、
☆この学者、人は歴史から学ばないと、諦めるような論説です。諦めないで欲しいのですが・・・むのたけじ さんも「希望は絶望のど真ん中に」を書き、辺見庸さんも「絶望という抵抗」を書いているのに・・・
・「もっとも辛いのは研究した現代史の展開が繰り返されること、すなわち、人間は結局歴史から学ぶことなどできないという現実をつきつけられることである。」
・「ウクライナ・・塹壕が彫られ、そこで第一次大戦時と同様に二十歳前後の青年が亡くなって・・青年たちのバラバラの骨が積み上がる横で、軍拡の担い手である軍需産業は潤った。人類は百年前から全然進化していない。さらにこころが暗くなるのは世間の戦争に対する鈍さである。『敵基地攻撃(反撃)能力』への支持率は18~29歳で65%、全体で56%という・・、20世紀の歴史は、攻撃されたとか、脅威を与えられたとかいう≪口実≫の作成に政治家や軍部が腐心してきた『口実合戦』の歴史なのだけれど、この能力の保有によって日本を取り巻く国々は開戦の≪口実≫をいっそう作りやすくなったし、・・軍拡が戦争を導いたことはあっても止めたことはない。」
・「いつの時代も、・・戦争被害者を置き去りにしてきた。いくら科学の水準が上がっても、人間の精神は成長していないように感じる。‥ああ、歴史がどこにもない。『わかんない』と『どうでもいい』が心を支配する時代、私たち現代史研究者にできることは淡々と過去の悲惨な事実と軍事に頼る社会が野蛮化することへの警鐘をつたえていくことだけなのだが、また今回の歴史のこれまでのパターンからすれば、多くの人は聞く耳を持たないだろう。」
☆暗いなぁー、「希望は絶望のど真ん中に」とはいかないか・・・
2023.01.29
2023年 本年もどうぞよろしくお願いいたします。
十勝池田に移住して10度目の冬、10年経てば地に着いた気持になれればいいが、どこまでもエトランゼ・異邦人・よそ者の気持ちが抜けない。100名山あちこち一人で歩き直すのに憧れる。
『人生余熱あり』、 燃え尽きればいいのに、燻(クスブ)っていて、燻製が出来ればいいが、変にス トレスが溜まってくる気もする。それでは日高の山に登ってウサを晴らせればいいが、持久力が続かないなぁと思っていたところ、大動脈弁閉鎖不全症中程度も見つかり、残る時間・余生も多くはなさそうだ。すること・すべきことは選別していかざるを得ない。捨てる勇気を持たなければ。今あるツンドクは全部は消化しきれない。これから読みたい本も必ず出てくるし、時間との勝負かな。でも時間に追いまくられるのは嫌だなぁーと思い、人気のない丘に登り眺望・自然で心を和ませる。
2022年は時代の大きな分岐点となりそうです。人が地球を改変してしまう時代で「人新世」に突入したとも言われます。気候変動、第6期生物絶滅期だとも。国連安保理事国が侵略戦争続行中、時代の逆行だ。日本では平和憲法、まるで骨抜き、いや逆を行く軍事費2倍を行く戦時体制へ、中国・朝鮮に負けるなと、しかし戦前より悪く、米国の奴隷的立場が良いのだと。また地震大国の日本で原発新増設するという。歴史の教訓の無視、サイエンスの無視。この国に住む一個人として、なにをすればいいのだろう。選挙で、判断される?輿論は正しい判断をする?朝日を辞めた、むのたけじを想い出す。
わが心境、ひとの言葉を借りて、山口泉 言「…政治の無法は、さらに葉梨康弘の≪死刑≫発言に露呈する。日本にいまだ死刑制度が存在すること自体、世界と人類史に照らしての屈辱だ。そしてそのおぞましい≪刑罰≫が直ちに人権の不可侵性の蹂躙であることをすら悟り得ぬ思考停止の『国民感情』を楯に、政府はこの国家暴力をほしいままにしてきた。戦争と並んで許されざるその絶対悪のシステムを、あろうことか自らの駄弁の≪枕≫に繰り返し玩弄する頽廃。・・・様々兆候が悉く、今や崩壊が不可避な段階を過ぎつつあるかもしれぬ気配を示している。この命をいたぶり抜いてきたこの国」 の為政者たち。・・・呆気にとられる。どぎつい言い方だけど…
GHQは、ポツダム宣言を守らず、日本を米国に都合よく中途半端にしか、民主化しなかった。日本は、勝者アメリカの属国であること。そしてアメリカは、天皇を日本支配のため、民度に合わせ、巧妙に憲法に≪象徴≫として残してきた現実。第1条(天皇)と第9条とセットで制定させた。後は12歳程度の民度(マッカーサー言)で考え、運用したらと、侮られている。そして右往左往し、米国の思うままが現実か! いや、明治初期、在野で自由民権運動が活発に起き、「五日市憲法」をも、策定されている。なんと明治13年、土佐の2町で、婦人参政権が4年間認められていた。また明治17年、秩父
では、パリコミューンごときの秩父事件が起きている。そういう在野の民(タミ)の動きをうまく掬い上げ纏め上げ、土着からの民主主義を築くことができたならと夢想する。そうしたら戦後のいい加減な押付け≪民主主義≫でなかったものを。文藝春秋新年号に、保坂正康らと懇談した際に、平成天皇は『日本にはどうして民主主義が根付かなかったのでしょうね』と、おっしゃった。英国王室・民主主義を範とし大いなる識者でおられる陛下、本音なのでしょう。アイロニーの匂いもする?
生真面目な天皇陛下はより良き≪象徴≫にと、おっしゃるが、定義もされてない≪象徴≫のなんたるかを考えるべきは、憲法の精神からして≪民≫が考えるべきものと識者は言う。けれど、それは≪空虚≫だと、言う小説家(赤坂真理・森達也)たちもいる。なんたるかを論ずべきだが、忖度が起き、タブーにして考えない≪空気≫を作ろう、ということにしているようだ。 憲法第1条から、忖度・空気の薦めと、皮肉くりたくなる。
北海道では珍しい、湿った重たい雪が、12/23日に当地でも40㎝近く積もった。その後、凍ってしまった雪なので、雪の下に置き忘れたものは、来春までそのままか?
私事、令和3年の春に立ち上げた、NPO法人池産池消自然エネ研修所の活動は、池田で発生した伐採木をペレットに製造する作業(事業)は、ほんの少し形にはなった程度、多少?の苦労をしています。そんなこと等もあり、町会議員は、この4月で卒業と決めました。田舎議会、ホントに勉強させてもらいました。中央の政治と悪いところは似てるもんだ、等々それなりに頑張りましたが。
寿命には勝てない鶏1羽は他界し、山羊親子2頭、柴犬1頭、オス猫(半野良)と私、ペレットストーブのお陰で、窓からの広々した大地・雪原(畑)を眺めながら、暖かく越冬できるでしょう。
あなた様にとり、より良い年になることを祈念しております。
2023年 正月
髙田 學
2023.01.12
「六つの村を越えて髭をなびかせる者」 西條奈加 著 読書ノート
◎帯より「九度蝦夷地へ渡り、アイヌ文化を後世に伝えた最上徳内の半生を壮大なスケールで描く歴史長編
何度挫けようとも男は北の大地を目指した。」
・「…百姓に学問なぞ無用なものだ。と・・叱ったことは一度もない。おそらくは、父が世間の広さを知っていたからだ。・・息子の向学心に蓋をしようとはしなかった。…なけなしの金をはたいて息子に与えてくれたのだ。☆その本は塵劫記。 27歳の時、父の一周忌の後、神田の煙草屋、に奉公後、永井右仲を師匠にし、音羽塾の本田利明に弟子入り。
・老中筆頭、田沼意次の用人・土山の師・工藤、『赤蝦夷風説考』執筆中、云々で、本田利明と最上徳内とが、田沼意次の命で、50人の見分隊に加わることに。が師匠が怪我(芝居)で、徳内のみ同道。普請役・青島俊蔵。
・天明5年(1786)2月、田沼意次の肝煎り見分隊、江戸を発つ。地味
・松前に着く、「…松前藩に借りを作らぬためだ。過分な接待を受ければ、手を加えたくなるのが人情だ…」
・本田利明の言「アイヌの民は、ずっと昔から蝦夷地に住まっておる。何百年、いやことによると千年以上も前から在るのかもしれん。雪と氷に閉ざされたさいはての地で、それほどの長きにわたり、子孫をたやすことなく存してきたのだ。その知恵と工夫は計り知れず、北方を拓くには欠かせない。ぜひ助力を乞い、共に手を携えるべき相手だ。」
・4月29日、松前発つ、東組総勢20名、松前の侍・浅利もいる、偵察役。旅の途中で上司・青島よりアイヌ語を習得せよと。運上屋の仕組みは商人と松前藩にとっては大きな旨味があった。アッケシ会所は飛騨屋のもの。石狩やソウヤに十数カ所、キイタップ会所、クナシリ会所も任されている。
・アイヌの少年・フルゥの手引でコタンを訪ねる。そして通う・アイヌ語覚える。
・惣乙名・イコトイ 「眼光の鋭さは知性を、堂々とした佇まいは胆力を、そして落ち着き払った態度は威厳を表していた。」
・ソウヤ会所「会所の規模はアッケシと変わりない。額が大きいのは、カラフトが近いからだ。清国の絹織物や陶磁器は、アムール川流域の民である山丹人やカラフトアイヌを経て、蝦夷アイヌへともたらされたが、いまや交易品のすべては、松前藩と商人の手にわたる。」
・1/20真夜中、雪の中、アッケシへの一人旅、発つ。アイヌのコタン、コタンに頼りながら・・・。「行く先々で案内を務めてくれたアイヌのひとたちの存在は大きい。・・・測量の合間に、熱心に案内人と話をする。…新たな文化に触れるごとに胸が高揚した。ことにユーカラやウエベケレと言った文学には、心が揺さぶられた。」
・「何も出来ぬ非力を嘆いていたが、この圧倒的な大きさの前では(☆勇払原野を見て)、己が悩みなどあまりに小さい。吹き付ける風にとばされて、いじましい気持ちが剥がれてゆく。残ったものは、純粋な思いだった。ここに田畑を拓くには、土地の者たるアイヌの力が要る。アイヌもまたそれを望んでいると、イトコイは語った。ならばおれは、アイヌ人と和人とを結ぶために力を尽くそう!そのためにおれはここにいるのだ。」
・「日高山脈は、この旅最大の難所だ。…クマに対しては驚かさないようにして立ち去るのが上策だと語る・・」
・「トカチという港に至ると…シラヌカという土地に至って一軒の運上小屋、番人の男・和人、陸奥の南部・野辺地(アイヌ語)にいた男、二晩泊。・・・松前から50日の旅、アッケシ着。アイヌ少年・フルゥに再会。徳内、髭もそらずに、「イワン コタン カマ シキヒ スイエプ ヘマンタ ネ ヤー」「キケバセイナウ」「六つの村を越えて、髭をなびかせるものは何か?」「謎かけの答えは、髭のように見える神具、キケバセイナウ」
・「ラッコの猟場たるウルップ島を、ロシア人に襲われた翌年、クナシリやエトロフのアイヌたちは二百を越える数を集め…、、以来ウルップ島は赤人とアイヌ人、共有の猟場となったという。…ウルップから北の島々は赤人領となっており、しかもすこしづつ南下を試みております。」
・『未知の場所を、見たい知りたいと欲するのは、ごくあたりまえの願望だ。13歳(フルゥ)の男ならなおさら…、だがおそらく願いは叶わない。公文書のなかでは、アイヌ人は夷人と記される。つまりは蘭人や露人と同じ、異国の者として扱われるのだ。蘭人が長崎の出島に籠められているのと同様に、アイヌ人は蝦夷地に封じられている。・・・・もしもアイヌ人がアイヌらしく生きることを望むなら―蝦夷地がロシア領となる方が、望みはあるのではないか? 何故なら、ロシアはあまりに広大だからだ。・・・この荒地が田畑になれば、飢えた民草がどれほど救われるか?―だが描いた夢の絵に、フルゥが憧れる雄々しいアイヌの姿は存在するだろうか?…迷いが生じたら、フルゥを思い出せばいい、この少年の行く先が明るいものとなるよう、そのための道を選ぶのだ。』
・ツキノエと山口ニシパ(東組普請役・侍)気心知れた仲、・・「やがて山口とイトコイが率いる本隊がクナシリ到着、3月末・・」 「勘定奉行の松本伊豆の守は、すでに蝦夷開拓にとりかからんとしている。…その数なんと7万人だ。・・伊豆さまが話を持ち掛けておるのは、浅草弾左衛門(非人頭)だ。あの男の力は侮れない。・・」
・宗谷隊の病死・・、ロシア人二人との徳内との交流・ロシア語勉強。 隊はクナシリで試し交易の実をする。
・「エトロフ以西の千島が日本領、クリル諸島以東がロシア領、ウルップはいわば両国の緩衝地帯にあたる。山口と青島は、隊長の佐藤玄六郎にそのように報告すると徳内に伝えた。」
・1786年十代将軍家治死去、田沼意次失脚、「新取果敢な重商主義は、保守的な幕臣たちを逆撫でし、農民の反撥を買った。…いつの世も、時代を先取りするものは憎まれる。彼らの描く先々が、足許ばかりに目を落とす大衆には見通しようもないからだ。」 「田沼の失脚とともに、蝦夷地見分隊の意義も失われた。」
・「評定所にて、田沼主殿頭と松本伊豆守の裁きが決した…『蝦夷地に関わる件は、不埒の至りに尽きる』2年にわたる蝦夷地見分隊の、それが成果だった。」 徳内、音羽塾の門下生に戻り、悶々とした日々で・・・
・「江戸の奢侈は、諸国の貧で支えられている。・どうも何かがずれているように感じた。2年にわたる旅暮らしを経て、変わったのは徳内の方だった。松前城下こそきらびやかだったが、一歩でれば茫漠たる原野が広がる。アイヌの自然に根差した営みは、江戸の奢とは対極にある…」 『私は今一度、蝦夷の地を踏みたい』
・松前家の菩提寺・法幢寺の秀山和尚を頼って松前に行くが、追い払われた。
・野辺地の嶋屋の主人・嶋屋清吉の世話で、子ども塾を開く。
・清吉の書物好きの妹・おふで(こぶ付き)と祝言を挙げる。 政権の中心は松平定信、潔癖すぎ。
・「東蝦夷の報がどこよりも早く届いたのは、おそらく野辺地だった。☆クナシリ・メナシの乱」
・普請役だった青島再雇用され、乱の見分に使わされる。
・「松前の専横とアイヌの窮状を幕府に訴え、蝦夷地を実り多い土地にする。田畑を拓き和語を覚え、対等の取引をしたい。イコトイはそう望んでいた。」 「イコトイは乱に加担せず、鎮撫のため動いておると思われます。」 青島、徳内再度、蝦夷地へ。
・「…さまざまな人種や民族があるが、尊厳に対しての考えは不思議と一致する。誇りを踏みにじられることは、ひもじさ以上の怒りを喚起する。」 「東蝦夷のアイヌは、もとより鋼強だと怖れられていた。・・遠い山丹やロシアと交易してきた東方のアイヌにとって、松前藩や商人がおしつけてきたのは、交易でなく略奪だった。」 「謀反なぞではございません。・・松前や商人からのあまりの仕打ちに耐えかね起こした一揆です。」
・「この乱を収めたのは、ひとえにイコトイやツキノエら、アイヌの顔役たちの働きによるものです。それを吟味すら行わず、直ちに斬首とはあまりに・・・」 「松前に従ったアイヌ人は、43人。その身なりを飾り立てたのは松前だ。・・・後に『夷酋列像』・画家は蠣崎波響 ・同道していた、常磐屋=笠原五大夫、幕府の隠密
・何故か?「主従共々牢屋へ・・」 徳内のみ3か月余り後、牢より解放。師匠本田利明の奔走による。
・「田沼時代を払拭し、・・田沼時代の香りのする報告書なぞ、認めるわけにはいかなかった。」 定信の意向で青島は、刑に処せられ、病死。 が、徳内は公儀普請役下役にとり立てる、命が下りたが、頑迷に断るが・・
・「いわゆる学問とは違え智慧を、物腰から感じ、畏怖を越えて親しみがわいた。アイヌ文化は斬新で、極寒の地に生きる術を蓄えられていた。それからイコトイツキノエに会い、数多のアイヌ人の助けを得て、単独で東蝦夷まで(厳冬期)踏破もしたが、やはりフルゥの存在が大きい。・・文化はおしなべて暮らしに密接しており、少数が多数に吸収されるのは世の慣いだ。それでも民族の誇りだけは、失って欲しくない。フルゥにはそれがある。」
・野辺地より妻が赤子を背負いて、江戸にたどり着く。喜び合い、≪六つの村を越えて、髭をなびかせる者≫になると決めて、ハッピィエンド。