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2023.07.26
「民衆暴力」 ―一揆・暴動・虐殺の日本近代 藤野裕子 著 読書ノート
◎表紙帯より 『「新政府反対一揆」「秩父事件」「日比谷焼き討ち事件」「関東大震災時の朝鮮大虐殺」、何が人びとを駆り立てたのか』
・はしがきより・・「近代国家は暴力の正当性を集中的に掌握し、それ以外の主体がふるった暴力を違法と見なす。それにもかかわらず、民衆が暴力をふるったとすれば、法や規範を突き抜けたことになる。・・本書は「民衆暴力」の時代的な変遷をたどっていきたい。」
・序章より… 「江戸時代の百姓一揆には一定の作法があり、・・なぜ百姓一揆では武器を持ち出さなかったのだろうか?・・幕府や藩も、一揆をいきなり弾圧することはなく、役人が訴状を受け取って、説諭し解散させるケースが多かった。…仁政イデオロギーは、仁君であることを名目に幕藩領主の支配を正当化(正統化)するイデオロギーであった。」 「商品経済の発達…仁政イデオロギー事態の機能不全に→一揆の作法の逸脱(武器携帯)→世直し一揆
≪通俗道徳と解放願望≫―商品経済の浸透→貧富の差拡大、小作人出る。『通俗道徳』=大原幽学や二宮尊徳らにより広まる(☆ピューリタン資本主義)が、「こうした経済の構造的な変化に伴う貧困を、個人の生活態度だけで解決するのは困難を極めた。」通俗道徳から逃げる?ように、飲んで騒ぎたい→「ええじゃないか」世直し的要素を持った踊り
§1 新政府反対一揆―近代化政策への反発
・廃藩置県・徴兵令・学制・賤民廃止令・地租改定という明治新政府の一連の政策に対しての一揆の総称
・「近代史研究者の今西一は、領主に仁政を求める江戸時代のお百姓意識は、反面では新政府反対一揆につながる賤民身分への蔑視を含んでいたと指摘する。」被差別部落襲撃が行われた理由。異人・血税
§2 秩父事件 1884明治17年11月4日 の蜂起、3日間の天下、検挙者7000人以上、借金10年据置等で蜂起。
・「困民党の総理に田代栄助(富裕な博徒)を迎えた、・・親分肌と結集力、そして義理人情を重んじる気質などが、民衆の蜂起に欠かせない要素であった。」 自由民権家の自由党員もいたが、主導はしない。
・「人々の生業を成り立たせることへの配慮がなされずに(近代的な金融機関など)、土地を失い、小作農となる農家が急増した。富裕者・治者にあるまじき、無慈悲で徳のない裁きが蔓延したといえる。秩父事件は、近世以来の慣習がベースにあったためと言える。負債農民騒擾で、蜂起まで発展したもの。
§3 都市暴動、デモクラシー、ナショナリズム 日比谷焼き討ち事件を読みとく
・1905明治38年9/5日比谷公園で、国民大会の開催が端。暴動、二晩で東京市の警察署2カ所、派出所・交番など220か所焼失。
・時代背景―日露戦争は日清戦争に比してはるかに規模が大きかった。戦争報道への強い関心から、メディアが急速に発達し新聞・雑誌の購読者数が飛躍的に伸びた。1899年帝国議会が開設されたが、日露戦争期の男性の多くは、二つの戦争を乗り切るための兵役・納税の義務を負う一方で、選挙権はなかった。
・≪都市暴動はデモクラシーか≫ 戦後の歴史研究は、日露講和反対運動とそれに端を発した日比谷焼き討ち事件事件を「大正デモクラシー」の出発点と位置付けてきた。・・未熟の形態ではあるものの、民衆が示威運動をした点で政治な覚醒であり・・というのが通説的な見解であった。・疑問がわく・・暴力をふるった人々には、国民大会を開催した団体とは異なる、独自の論理があったのではないか。」
・「警視庁は前日に、国民大会の開催禁止を決定していたが、日比谷公園に多くの人々が集まり、警察と衝突・・国民新聞社を襲撃→内務大臣官邸襲撃放火→軍隊→付近の交番襲撃(220か所)、路面電車の放火、キリスト教会各所襲撃・放火延べ20か所。焼打ちという行為が、異なる人の手から手へとリレーされるように、東京の街路を移動していった。☆何故暴れまわったか?
・「賠償金が取れず、領土の割譲も樺太の南半分にとどまるというポーツマス条約の内容は戦勝報道が続けられていた当時の日本国民を大きく落胆させた。人々の間に広まったのは厭戦気分であったのか?・・政府の御用新聞と目された『国民新聞』を除き、ほとんどの新聞が条約の内容に反対し、条約を破棄することを社説で主張した。」 戦勝報道と提灯行列・☆メディアが戦争を煽った。「戦争を遂行しうるナショナリズムは、誰かを露探(ロタン・ロシアのスパイ)と指さすことで作り出されてもいた。
・「なぜ暴動発生の経緯を知らない人までもが、急に焼打ちに加わったのだろうか」・・
・「近代の中で再編された社会的な序列、都市社会の不安定な状況に加え、通俗道徳の裏返しとして形成された生活文化、そこで培われた男性労働者の一発触発のエネルギーと暴れる身体、デモクラシーナショナリズムといった鋳型には収まりきらない諸要素が、一連の都市暴動の核となっていた。」「そのエネルギーへの突然の噴火は、国民大会の主催者や多くの知識人の想像を凌駕する出来事であった。」
・≪国家を引き締める≫ 国家の側も、対処するに、民間の中に自警組織を・・「民衆の警察化」→青年団、在郷軍人会。「準警察・準軍隊の組織が地域に恒常的に存在するようになったのである。」 ☆関東大震災時の朝鮮人大虐殺に繋がっていくことになる。
§4 関東大震災時の朝鮮人虐殺 1923年9月1日 地震
・「デマ(朝鮮人暴動、井戸に毒等)の発生源を厳密に特定することは飼料的に難しい。が研究上、見解が一
致している点=震災当時から警察が朝鮮人に関する流言・誤認情報を率先して流し、民衆に警戒を促したこと。」 9/3に、内務省警保局(警察を取仕切る官庁)より各地方長官に、「朝鮮人が暴動を起こした」という電報を送る。9/2、3、4と東京市と周辺地域に戒厳令を施行。「あたかも本当に朝鮮人が暴動を起こす(起こした)かのような状態がつくり出された。これが、軍隊・警察・民衆から朝鮮人を殺害することへのためらいが払拭された原因といえる。」
・司法省の調書で、震災時の朝鮮人の罪を犯した人数140人というが、石橋湛山は当時書く『…かくては、その犯罪者が果たして鮮人であったか、内地人であったかもわからぬわけである。』(震災後3カ月間、東京市で窃盗犯罪4400件)…「したがって、≪朝鮮人が暴動を起こす≫という流言は、実態のない想像上の産物に過ぎなかった。日本の政府・警察・軍隊・民衆は、想像上の≪テロリスト≫から日本を守ろうとして、生身の朝鮮人を殺害していったのである。」
・1910/8月、韓国併合、植民地に。日本の統治は、朝鮮の慣習も破壊した。統治者による一方的な生活・慣習の改変であり、収奪であった。(☆梶山季之の小説・李朝残影参照)→朝鮮独立への運動1919年「三・一運動」・「虐げられた民衆の激情の爆発」←日本、軍事的な強制措置によって鎮圧。死者数7500人、官憲側7人☆植民地支配の権力なんでしょう。3.1運動当時の朝鮮統治者が、大震災時の治安維持を担う。3.1運動後、「不逞鮮人」の言葉が、はやる。
・「植民地を支配する側が被支配者に対して抱く反乱の恐怖と嫌悪が、帝都の警察機能が麻痺した状況で前面に現れたといえよう。」
・≪東京での虐殺≫ 荒川放水路沿い等、多くの地域住民の目撃。自警団だけでなく、軍隊も。「官民一体の虐殺」。「官憲が流言を広め、軍隊が戒厳令を布き、朝鮮人を殺す。こうした公権力の直接的な関与が、多くの日本人に流言を真実だと信じさせる結果となったことは想像に難くない。」
≪千葉での虐殺≫ 「自警団による虐殺が多かった」「軍関係者が民衆に暴力行使を許可したことが、虐殺につながった。「北総鉄道の工事現場で働く朝鮮人労働者を、自警団が針金でしばって船橋警察署に連行したところ、東京の避難民が『そんなやつらたたき殺してしまえ』といい、それを機に暴行が始まったという証言がある。」等々
≪埼玉での虐殺≫ 「自警団は各駅で降りて来る罹災者が日本人であるかどうかチェック、日本語が怪しければ、警察に連行か、その場で暴行か・・」「本庄警察署では、警官の制止を振り切って、自警団が本庄署内に侵入し、保護されていた朝鮮人を殺害した、・・軍隊が駆けつけて収束を見た。ここでは軍隊が民衆の虐殺を制止した。」 自警団は竹槍、鳶口、日本刀で武装。「かろうじて生き残った人々の証言によって、虐殺の実態が明らかになった。」
≪虐殺の痕跡を打ち消す国家≫ 9/5、山本権兵衛内閣は方針転換、告諭「民衆自ら濫りに鮮人に迫害を加ふるが如きこと」を戒める内容。海外からの批判を回避のため。また地方長官に対して流言を流布する新聞記事の差し押さえを命じた。」
・殺害者数の検討― ①司法省は合計230人 ②吉野作造ら調査 2613人 ③在日朝鮮○○班調査、6661人 、焼いたり、埋めたりしたから把握できない・・「本庄署の巡査は『数が分からないようにしろ』という『お上の命令』を受けて・・、このように警察・軍隊によって意図的に遺体が隠蔽されたからである」
「権力犯罪が、権力側の資料に正確に記録されることはまれである。」
・≪自警団だけが裁かれる≫ 「裁判でも公権力による殺害は不問に付された」 自警団「実際に殺害に携わった人数は多かったにもかかわらず、裁判掛けられたのは、ごく一部であった。・量刑の軽さも指摘できる。・ただし、朝鮮人と間違えられて日本人が殺された事件(福田村事件)の場合、懲役10年の実刑が言い渡されている。(対朝鮮人の場合2~3年執行猶予付き)
§5 民衆にとっての朝鮮人虐殺の論理
≪加害の論理にせまる≫ これまでの研究は「植民地に対する蔑視と、三・一運動をきっかけに『不逞鮮人』という語がメディアを通して広まり、朝鮮人を「テロリスト」と見なす偏見や嫌悪感が生じたことと、日本民衆が震災時の朝鮮人虐殺を『天下晴れての人殺し』と捉えていたことに注目している」 横浜市震災誌より『労働者風の男が、その仲間と話してる/・・俺は今日まで六人やりました/そいつは凄いな/何てっても身が護れねぇ、天下晴れての人殺しだから、豪気なものでさぁ。』 「戒厳令の施行や軍隊の言動が、民衆のこのような認識をつくり出したといえる。」
・≪虐殺の現場≫ 「『朝鮮人暴動』のデマを信じてしまったからというだけでは片づけられない残虐さが、ここにある」
・≪恩賞にあずかる≫ 「国家に委託された暴力であるがゆえに、・・熊谷でも、虐殺後に、恩賞にあずかりたいと届け出が出されていたというから、虐殺を誇る意識は広く共有されていたと思われる。」
・≪民衆暴力としての共通性≫ 「警察による日常生活の統制に対して、民衆からの不満・反感を持ち、暴力が湧きあがった際に、警察に矛先を向けていく。」本庄署の襲撃と焼打ち未遂がその例。「権力に反発する意識と多民族などを差別する意識は、一人の人間や社会集団のなかに矛盾なく存在し、ひとたび始まった暴力を契機に、両方が引き出されることがあり得るからだ。」
◎「関東大震災時には、暴力の正当性を独占していたはずの国家が、民衆にその正当性を委譲して、『天下晴れての人殺し』の許される状態が作り出された。この時、民衆からは朝鮮人に対する蔑視や敵意に加え、男らしさというジェンダー規範、国家に貢献することへの誇り、人を殺すことへの残虐な好奇心などが湧きあがった。殺害のあとには、復讐されることの不安に駆られ、虐殺はいっそう徹底的なものになった。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ラスト「過去の民衆暴力を見る視線を研ぎ澄ませれば、現在を見る眼も磨かれる。民衆暴力をネガテイブに捉える機制を見抜き、暴力をふるう行為者に即した理解を試みること。そして、権力を乗り越えようとする民衆の力がどのように発揮され、同時にどのような存在を切り捨てていたのかをしっかりと見据えること。・・・そのような視座から歴史を見ることで、・・紡ぎ直し、編みなおす力が得られるように思う。」
☆著者・学者は、種々資料を読み解き、現代の人の認識に役立つように、民衆史を著述する、凄いなぁー。
2023.06.15
「社会の変え方」 泉 房穂 著 読書ノート
◎表紙帯― 日本の政治をあきらめていたすべての人へ 障害のある弟と過ごした子ども時代―。原点は、冷たい社会への復讐だった。
・「私が生まれ育った明石市の二見町は、瀬戸内海に面した小さな漁師町。」それなりの貧乏な漁師の子。4っつ下の弟が障害をともなって生まれる。1967年のこと。
・当時日本には≪優生保護法≫、兵庫県は『不幸な子どもの生まれない県民運動』、差別施策の率先。
「医師は当然のように弟を『生まれなかったことにしよう』と言ったのです。兵庫県の運動は1972年まで、優生保護法は1996年まで続きました。」 母は「・・堪え切れず、『どうか命だけは』と泣き崩れ、『家に連れて帰りたい』と懇願したそうです。」 病院『障害が残ってもいいのか?』と問い質しました。
・≪少数派を無視する社会≫―「同じ社会に生きているのに、多数は居心地が良くても、もう一方の少数派はしんどい思いをしている。両方の立場を行き来していた者として、こんないびつな社会のあの方が、まともだとは到底思えなかったのです。」
・≪弟が小学校へ通うために誓約書に書かされた2つの条件≫―1っつ『何があっても行政を訴えません』 もう一つ『送り迎えは家族が責任を持ちます』
・≪本人の幸せは本人が決めると知った≫― 『弟のため』と言いながら、本当のところは、自分が周りから笑われたくなかっただけなのかもしれない。…たとえ周りに迷惑をかけるかもしれなくとも、兄として、とことん弟の味方であるべきだったのに。」
・≪2人分(弟の分)、稼ぐために東大へ≫、「学生、ほとんどが現状維持的思考の持ち主。例外は、駒場寮、寮委員長になる。『自分たちのことは自分たちで決めよう』キャッチコピー、長らく民青系・共産党系であったが
・「大学に行ってさらに強く感じたのは、周りの者の無関心、現状追認の空気感。そして誰かが代わりに闘ってくれることもなく、誰かが世の中を良くしてくれることにも期待しがたい。気づいたものが、自らがそれを正し、世の中を良くしていくしかないであろうという冷徹な現実。」
・≪テレビ局時代に感じた限界≫≪『人間のための政治は勝つ』。恩師、石井紘基さんとの出会い≫、師に司法試験を勧められ、4回目の挑戦で合格、弁護士へ
・≪六法全書を初めて見たとき、赤ペン入れて直してやろうと思った≫―
・≪弁護士としてたどりついたのは、世の中の根本的な問題≫―数多くの悲しみや苦しさに出会い、ともに悔しさを噛みしめる中で、いわゆる従来的な弁護士の限界というものを改めて思い知らされました。…この世の中のそもそものしくみを変えなければ、問題を根本的に解決することなどできない・」
・≪正義のために刺された遺志(石井紘基)を引き継ぎ、国会へ≫―刺され、国会質問の書類が奪われ、見つかっていない。闇に葬られた・・・。石井さんの無念をはらす、国会議員になる。40歳2003年のとき。
・≪党や選挙区に関係なく、他のみんなが見捨てても≫― 議員立法にとりかかる。が、2005年郵政解散選挙で落選。
・2011年明石市長選挙、69票差、市長へ「支持母体は市民だけです。でも、それで十分だと思ってます。」
§1 ≪子どもの町≫から始まる好循環―なぜ人が集まり、経済も上向くのか?―
・子ども施策『5つの無料化』①18歳までの医療費 ②第2子以降の保育料 ③中学校の給食費 ④公共施設の遊び場 ⑤「おむつ定期便」(0歳児見守り訪問)
・≪寄り添う施策≫①養育費の立替払&親子の面会交流支援 ②児童扶養手当の毎月支給 ③戸籍の無い子供の支援 ④子ども食堂をすべての小学校区で開催 ⑤児童相談所の改革(第3者チェック等)
「ほとんどが日本以外の他の国ではあたりまえに実施」
◎行政には≪お上意識≫≪横並び意識≫≪前例主義≫が染み着いている。
・≪子どもに冷たい社会に、未来はない≫・・子どもから好循環が生まれ、回り始める。
・「安心して子育てができるよう、子育ての負担を軽減する政策があれば選ばれる。こうして明石市は『暮らす』『育てる』に特化しました。」・・「人はもしものときに安心がないと、お金だけでは動きません」
・「最初に『事業者』を支援するのではなく、まずは『子ども』から支援する。『企業』ではなく消費者である「市民」の側からこそ経済が回り、持続可能な好循環につながります。」
・≪「無駄の象徴」になりかけた再開発を「まちづくりの象徴」に変えた≫≪「本のまち」が人を育む≫
・≪おむつの無料配布で孤立防止≫≪最大のポイントは「所得制限なし」。見るべきは、親でなく子ども自身≫・・「『子どもの未来』は『社会の未来』そのものです。」≪スタートは「経済」でなく「人」≫
§2≪「お金の不安」と「もしもの不安」に向き合う―まちのみんなで「寄り添う」支援≫
・≪誰も取り残さず、あれも、これも≫・・「必要なのは『子育ての社会化』です。
・≪不条理を放置しない「離婚前後の養育支援」≫・・「明石市では、別れた親とその子どもが面会する場に、市の職員が立ち会うようにしました。・・」
・≪お金を渡すだけが仕事ではない「児童扶養手当の毎月支給」≫・・「ポイントは早期、総合、継続支援です。子ども本人に100%必ず会う『乳幼児全数面接』も実施しています。・・子どものためのお金は、「子どもの顔を確認できるまで渡せない」とのスタンスで、100%会うことを続けている。」
・≪人数の問題ではない「戸籍のない子どもの支援」≫≪やってるフリで終わらせない「子ども食堂・」≫
・≪まちの迷惑ではなく、まちの誇り「児童相談所の設置と改革」≫
・≪面倒は「社会がみて」あたりまえ≫(家庭でなく) 「行政の本気が伝われば、市民はまちづくりを応援してくれる。」
§3≪「お金」と「組織」の改革―明石でできたことは、全国でもできる≫
・(前書き)「『既得権益にメスを入れて、得られた財源で子ども施策を遂行』することは、≪権限的」には
何も難しいことではありません。≪政治的≫には、既得権益側の怒りを買い、不祥事をでっち上げられたりもしますが、それも市民・有権者の応援があれば大丈夫です。」
・≪予算を2倍、人員を3倍に。「金がない」「人が足りない」はウソ≫(子ども予算)、
・≪「誰かに我慢を強いる」その発想が間違っていた≫・・「既得権にとらわれず、抜本的な予算のシフトを断行し、他の分野から新たな予算を得るべきではと・・」 「発想の転換・・」
・≪トップが腹をくくればいい≫・「自治体のトップの大きな権限「政策の方針決定権」「予算編成権」「人事権」 ≪「決めたら終わり」の権限を使うか、使わないか」≫≪選挙の在り方は、当選後の政治の在り方を左右する≫≪無駄の削減はどうやったのか≫「外部のコンサル業者・・」
・≪人事をどう変えたのか?≫≪「適時」「適材」「適所」の組織をつくる≫≪弁護士職員の採用≫
・≪司法と福祉をつなぐのが役所≫・社会福祉士 ≪汎用性と専門性を組み合わせ、チームで機能する≫
・≪「縦割り」と「申請主義」を乗り越える≫ ≪果たすべき責務≫・公約・・
§4≪誰かの困りごとをみんなのセーフティネットに変える≫
・前文「・・『障害があるからあきらめろ』と言われる側だった経緯もあり、少数者に≪あきらめ≫を強いる政治であきらめたくはない。」
・≪「子ども」にやさしいまちは「すべての人」にやさしいまち≫≪生きづらさの原因は「本人」ではなく「社会」の側にある≫・「・そんな完璧でもない人間が、「あちら側」と「こちら側」に線を引いて仲間外れにしたがるのです。」 「市では、段差をなくすお店に税金で全額助成を行うことにしました。」
・≪「犯罪被害者支援」は、「市民みんな」のセーフティネット≫―「弁護士時代、数々の冷たい現実を目の当たりしてきました。法や制度やしくみが間違っているのです。どんな状況に置かれても大丈夫と言える、安心な世の中にしたい。冷たい社会を変えて見せる。・・市では2014年『犯罪被害者等の支援に関する条例』を改正しました。」
・≪認知症になっても大丈夫なまち≫―2022年『認知症あんしんまちづくり条例』制定
・≪実はみんな、少数派に属している≫―「自分が多数派、いわゆる周りと同じ側にいると信じたい。同調圧力の強い日本の社会ですから、周囲に合わせ、つい本来の気持ちを押さえてしまう。そんな生きづらい社会では、多数派を正しいと思い込み、少数派を排除する風潮が強まりがちです。…今の世の中は『9割ぐらいの人がハッピーなら、1割ぐらい仕方ない』という多数決の価値観が主流になりがちですが、私にはそうは思えません。歳を重ねれば、・・誰もがいつか少数派になります。誰かを排除していく社会では、自分も排除されることになるのです。だからこそ・・生きづらさを覚える冷たい社会でなく、・・」
・≪人は社会的意義だけでは動かない「障害者配慮条例」の背景≫―段差などの『物理的な障壁』と、偏見・無関心・思い込み等の『意識の壁』などの多くの障害が存在。2016年国・「障害者差別解消法」。内閣府『障害の社会モデル』・・「周りのひとり一人は悪い人ではないのに、慣習や制度が少数派を排除することを前提にしていたのです。障害は社会が作り出している。子どものころからずっと怒りを覚えて続けてきました。(☆制定の背景?) 2015年全国初「手話言語・障害者コミュニケーション条例」、国の差別解消法に合わせ、市で「障害者配慮条例」・・配慮する店が数十店を超え、逆に配慮が当たり前に変わり・・」
・≪当事者とともに、まちの風景を変えていく≫―「障害者への配慮を促進すれば、まちがやさしくなる。みんなが幸せになることを実感し、・・狙ったのは、思いや情報の共有だけでなく、現実的な効果です。」
・≪市民が動かした「優生保護法被害者の支援条例」≫
・≪ありのままが、あたりまえのまち「ファミリーシップ制度」≫―「市では、パートナー同士の関係と共に、全国で初めて一緒暮らす子どもも合わせて関係性を証明する「パートナーシップ・ファミリーシップ制度」開始。
・「条例づくりは、まちづくりの有効な手段です。条例をつくる過程で理念をしっかり各現場に落とし込む。その中での気づきを条文に反映させていく。」
・「『インクルーシブ条例』は、まちづくりのシンボル的な条例です。これまでの明石のまちづくりを明文化し、明石のまちの未来へとつなぐ大切な規定。多くの市民が共感を持ちながら、まちづくりが進むことを強く願う立場です。…少数の困りごとを解決することは、多数の人々のセーフティネットになります。障害者、犯罪被害者、無戸籍者、ひとり親、LGBTQ+、子ども、女性・・・そういった「マイノリティ」とされる人たちをすくい上げ、・世界の主流であるインクルーシブの視点は、この世の中を「少数派と多数派」に区別して分断や排除を強制的に持ち込む発想と異なります。冷たい社会を変えていく。行政だけでなく、私たち一人一人にも託されています。」
§5≪コロナ禍で見えた自治体のあり方≫
・前文「『税金』とは、国民から預かっているお金だ。それに『知恵』と『汗』の付加価値をつけて≪国民に戻す≫のが、政治の役割だ。」
§6≪望ましい政治に変えるために私たちは何をすればいいのか?≫
・「口を開けば政治家、学者、マスコミは『金がない』『仕方がない』と、私たちをあきらめさせようとしてきます。『どうせ何を言っても変わらない』。そんなマスメディアを駆使したネガテイブキャンペーンに騙されてはいけません。・・政治は変えられるし、変わります。」 exパブリックコメント・・
・≪「お上意識」を消し去る≫―「私は『三つの発想の転換』を掲げ、改革を広めてきた。①上から ②一律
③これまでどおり の時代はもうとっくの昔に終わりました。…上からの態度をとる行政目線にひるむことなく、私たち市民から。あなたのまちから、政治や行政は動かせます。日本の狭い範囲でしか通用しない常識とされていること、間違ったあたりまえを疑う。視野を世界に広げ、思い込みから脱却する。私たちの声で、もっと期待できる体制に変えていけばいいのです。」
・≪「横並び意識」を変える≫・・・≪「前例主義」からの脱却≫―「今、目の前で市民が困っているなら、躊躇することなく変えればいいのです。 『発想の転換』が必要です。
・≪変わらないのは、私たちの責任≫―「既得権益を守る仕組みは強固です。何の行動も起こさずに文句をいっているだけで変わるほど甘くはありません。変わらないのは行動しない私たちの責任でもある。私たちが変えていくしかないのです。」
◎おわりに 「私には、まだまだやるべきことがたくさんある。冷たい社会をやさしい社会に変えるのが私の使命だ。」
☆この本に、感銘を受けた人は、「政治はケンカだ」泉房雄 著 聞き手鮫島浩 の本(講談社)も是非お勧めです。具体的に種々の相手に対してどう考え行動していったかが分かります。
2023.06.01
「蝦夷地別件」 船戸与一 著 読書ノート
◎先住権の国際シンポジウムが5/26~28にあるので、それに間に合わせるように、大長編小説を読みました。和人である船戸さんは、アイヌ問題は過激なのかな?復讐するのが、大衆小説的?
☆1789年フランス革命の時に、蝦夷地ではクナシリ・メシナの戦いは起きるべきして起きた。
・「マホウスキはすこし声を強めてつづけた『クリル人(アイヌ人)の暮らしは年々酷くなっている。なぜだかわかるか?日本人がやってきたからだ。クリル人は日本人から住んでる土地を追い払われ、女は強姦され男は殺され続けている。このままだと日本人はサハリンにもやってきてオロッコ人やギリヤーク人にも同じことをするだろう。・・』 ☆外国人が見れば、日本人はそうだったんでしょう。
・天台宗の坊主・静澄 『征夷大将軍たあ本来、夷狄を平定する職務だぜ、・・順(まつろ)わねえやつらの性根を叩き直すのが仕事だ。・・草深いところに隠れてわけのわからないことを考えてる連中を力づくで引きずりだし、牙を引っこぬいて無理やり和人にしちまう職名だぜ。』 すごい皮肉?卓見?
・『松前藩は蝦夷に月代を剃ったり髷を結ったりするのを禁じてきた。・蝦夷と和人の区別がつかなくなるのは困るからだ。松前藩も飛騨屋もいくら蝦夷を傷めつけようと最後はやっぱり交易の相手と視てるのさ。つまり、蝦夷は所詮、異国の人間だとな。田沼意次もその考えから抜け切れらなかった。だが松平定信はちがう。・・・』
・「飛騨屋運上船支配人・勘平・『塩鮭百匹が米8升というこれまでの商い勘定じゃ、飛騨屋としちゃ・・百五十匹じらいでないとな。』 ☆飛騨屋、悪どかないかい!
・『あれだけ多くの同胞(ウタリ)がシャクシャインのもとで戦ったのに、結局、松前の鉄砲組には勝てなかった。わしらはだれもがシャクシャインのことを誇りに思ってる。しかし負けは負けだ。これは動かしがたい。』
・「田沼意次が御試交易をはじめた本当の理由は、・狙いは露西亜人およびサンタン人との交易だった。これが産み出す利は莫大で、薩摩が藩ぐるみの抜荷をやってこれを得ていた。・・」
・脇長人ツキノエ・『わしらが立ち上がるとき、力ずくで和人をアイヌの大地から追い払うだけでなく、和人の考えかたもアイヌの頭のなかから追い出さなきゃならない。・・』
・ヨイマイラが殺され、惣長人の死(毒殺?)によって、クナシリの同胞たちの和人への怒りはすごい勢い・・
・「・・幕府間諜・青島俊蔵(最上徳内随行者)が小梅に遭いに松前に来る…
・ツキノエを裏切った倅のセツハヤフ・『もう同胞たちを押さえられない。だれもが和人を殺したがっている。来るか来ないかわからない鉄砲を待つわけにはいかない。同胞たちの怒りはそこまで来ているんだ。もしこれを無理に抑えれば、アイヌは永遠に和人から骨抜きにされるだろう。』
・セツハヤフが息子のハルナフリに・『何があろうと、おまえは死んではならない。・・そして10年後20年後に今度こそ和人をアイヌの大地から完全に追い払うような戦いを起こすことだ。それがおまえの務めだ。』
☆ストーリーでも、現実にも、将来に渡っても、その務めは果たされてません。
・「目梨(東蝦夷)でアイヌが戦いを起こしたことはいずれ松前に届く。・・人殺しを仕事(☆武士の意味)としてる和人がやってくる。・・アイヌを根絶やしにしてしまおうと言い出す連中も出て来るだろう。」
・シャクシャインの戦いは・・「和人の砂金採りと一緒になって同胞をこき使ったオニビシとの戦いが和人全体への戦いとして拡がっていったのだ。」
・「松前藩が様似や釧路に手なずけてる牙を失くした蝦夷の長人どもを鎮撫軍のなかに合流させ・・・」
・天台宗坊主・静澄・「ただ観るだけさ。他には何の狙いもねぇ。俺の関心はただひとつ、世の中で何が起き何が起こらなかったかを確かめ解きてえ、ただそれだけさ。」☆ジャーナリスト精神?
・『・・あの連中(様似・釧路の長人)は松前に呼ばれ、藩主の御目見得(おめみえ)となるんだ。賜物のひとつももらえるってわけさ。』 ☆お目見得蝦夷・アイヌ
・☆アイヌ蜂起総数は、3百は超えている。対して鎮撫軍は260人但し武器は鉄砲、大砲まであり差は歴然だけど、パルチザンで抵抗すれば勝ち目がないとは言えないと、ゲバラは言った?嘘か?
・松前藩・新井田孫三郎・『松前藩は幕府に報告を迫られる。・・その報告の中に今度の蜂起について露西亜人
の動きをどう盛り込むかをな。…これはいい悪いの問題じゃない。どうしても死体が要るんだ、適正な死者数がな。・幕府は松前藩の蝦夷地経営能力に文句をつけてくる。・・』 帰順したアイヌを殺す=国際法違反
・幕府間諜・葛西・「露西亜人まず蝦夷地に入り込んでくる。・・しかし放置すれば松前藩は露西亜と結んで幕府に刃を向ける恐れもある。そこで幕府は蝦夷地を松前藩から取り上げることに決めた。そのためには理由が要る。松前藩には蝦夷地を治める力がないという証が要る。」、坊主洗元・「そのために蝦夷を弄んだ?・そんなことのために戦を煽った?」、葛西・「蝦夷地を幕府直轄にするということは露西亜の動きに備えるためだけじゃない。・田沼意次が何でもかんでも金銭づくしの世にしたせいで、鄙が壊れ百姓たちが江戸や大阪に流れ込むようになった。・・幕府直轄にすればこういう無宿人たちを蝦夷地に抛りこむことができる。」、洗元・「しかし幕府が血を流したわけじゃない。殺されたのは陸奥や陸中からきた漁師たちですよ。確かに、みんな蝦夷に対して酷いことをしてきた。殺されて当然のようなことも。だけど、その死を口実にして松前藩から蝦夷地を取り上げ、蝦夷を無理やりに日本人にしてしまうなんて理屈が通りませんよ」
・静澄・「紅毛人の動きを口実に松前藩から蝦夷地を取り上げ、順(まつろ)わねえ蝦夷たちを順わせて日本という国家のかたちをもう一度整えようとしたんだよ・・・」
・ツキノエ・「アイヌはただやみくもに突っ走ろうとしたわけじゃない。肚を据えて和人をアイヌの大地から叩き出そうと考えていたんだ。・・想いもしなかった方向に突き進んだ・・」
☆和人は71人、アイヌ人37人の死亡。この戦乱の顛末。
☆最後に読者サービスで、復讐物語を創作したようです。史実では殺されてないのに、さらし首にされたり、…。ストーリーは敢えて外しました。アイヌの時代状況は勉強になりました。
☆主人公のハルナフリ・葛西政信は創作の人物。新井田孫三郎と松前平角は実在だ創作。